日本人が忘れてしまった何かって何なの?


こんにちは。
快便だけが取り柄のミルキクタベルの旦那です。


旅のブログ、旅のテレビ番組、旅を扱う小説などは御多分に洩れず大好きだ。このブログの読者もそういう人が多いと思われる。

そうした情報に触れている時、たまに「日本人が忘れてしまった何かがここにはある」みたいなフレーズに出くわすことがある。正直言って、意味がわからない。言わんとすることの雰囲気は伝わってくるような気もしないでもないが、具体的にそれが何なのかをどうしてみんなハッキリと書いてくれないのかとヤキモキしてしまう。

 

つまりそのナニカって何だよ?

 

常日頃から、なんとなく考えていたことだが、今日は頭の整理を兼ねてナニカとは何か、書き出しながら考えてみたい。

1. パターン分類

1.1 場所

「ナニカ」が目撃される場所は、主に次のようなところだ。

国を問わず、自然の豊かな場所
・外国(外国一般、アジア諸国、または経済的に貧しい国)

1.2 時代

日本にその「ナニカ」が存在していた(であろう)時代はいつか

・失われたウン十年
・バブル期
・昭和の成長期(高度経済成長期が終わるまで)
・戦後の焼け野原
・欲しがりません勝つまでは
・日清・日露戦争
・明治維新前後
・江戸時代
・戦国時代、それ以前

現実的な範囲としては、江戸時代から昭和成長期の終わりくらいでまでのあたりに想定されている時代が含まれているのではなかろうか。

1.3 「ナニカ」を仮定する(場所編)

それぞれの場所で目撃される「ナニカ」を類推し、仮の答えをはめ込んでみる。横軸からのアプローチだ。

・自然が豊かな場所にある「ナニカ」

自然に対する畏怖の心(アニミズム)
アナログでシンプルな生活

・外国一般にある「ナニカ」

効率性一辺倒ではない生活
他人とも気楽におしゃべりをする人との繋がり

・アジア諸国にある「ナニカ」

→儒教文化圏にある礼節・年長者敬慕
→(特に外国人に対する)シャイな対応

・経済的に貧しい国にある「ナニカ」

→単に貧しさ
→貧しい者同士の助け合い
→「足るを知る」とも解釈できかねない欲の少なさ

1.3 「ナニカ」を仮定する(時代編)

次に、過去の時代に存在していた(とされる)ナニカについて考えてみる。縦軸からのアプローチ。

・自然への畏怖心
・和を以て貴しと為し・・・
・仏教の因果応報意識
・儒教的な規範
・江戸以降の武士道
・幕末偉人たちの志
・国民を挙げての高揚
・全体への奉仕と自己犠牲
・敗戦後の混乱から抜け出ようという必死さ
・とりあえず遊びまくる子ども
・貧しい中での助け合い
・寡黙に働く金の卵
・経済成長を支える企業戦士
・核家族で子供を育てる専業主婦

かなり幅がある・・・。
が、この横軸と縦軸を合わせると、旅先で登場する「ナニカ」が多少なりとも絞れてくる。ひとつは、「自然への畏怖」だと思う。これについては違和感はない。ただ、今でも日本人は特に自然に対する畏怖の心を持っているので「忘れた」は言い過ぎだろう。

もうひとつは、「貧しさ」「文句一つ言わない寡黙な労働者」「貧しい中での助け合い」「遊びまくる子ども」あたりが縦横の軸にヒットする気がする。

やはりキーワードは「経済的な貧しさ」になってくるのではないだろうか。。。

2 話者の意図

2.1 単なる懐古趣味を疑ってみる

昔を美化するバイアスも多分にあるはずだ。

たとえば、昔の日本人はマナーが良かったという話があるが、ポイ捨て・歩きたばこ・タン吐き・公共の場での泥酔・・・自分の幼少時代を思い出しても今よりひどかったと思う。昭和の時代を見ても、公害問題、異常な消費、女性・障害者・職業・国籍・肌の色など各種の差別意識は今よりひどかったと思う。

「ナニカ」は忘れていたんではなく、勝手に自分が美化している三丁目の夕日である可能性も否めない。時代閉塞の現状を考えればそういう気持ちもわからなくもない。

・昔はその「ナニカ」が確かにあった
・昔はその「ナニカ」が一般的な理想・あるべき像であった
・いやいや、その「ナニカ」なんてもともとなかった

2.2 日本的な褒め言葉の可能性

日本はダメになった。君のところにあるものが、日本にはないんだ

自分を批判することで、結果的に相手を褒めるという「謙譲語」的な褒め言葉なのかもしれない。たまに、自国の良さを熱く語ってくれる外国人が居るが、日本人でアレをする人は少ない(思っていてもね)。

2.3 豊かな自分への罪悪感にさいなまれている可能性

経済的に貧しい国の人から「日本っていいな、何でもあるし、きれいで金持ちですごいじゃん。俺も日本に行けたらなぁ・・・いや、絶対ムリだけど」と言われた場合、嬉しくもあるが同時に後ろめたさも感じるだろう。そんなときは、相手が持っていて、自分が持っていないナニカを探して埋め合わせしなければ心のバランスがとれない。たとえばこんなブログがあったとしよう(創作)

彼はこの粗末な小屋で日々暮らし、お土産物を売ってはわずかな収入を得ている。しかし、そんな中でも子供たちは精一杯かけまわり、目を輝かせて遊んでいた。無邪気に遊ぶ子供たちの笑顔を見ていたら、経済的には貧しいかもしれないが、ここには日本人が忘れていた何かがあるのだと感じた。今日はようやく麓の町に帰ってきたのでネットにつないでこのブログをアップしている。明日はビーチで有名な南の島でスキューバダイビングに初挑戦してくる。

要約すると、「いいんだ。この村や彼は貧しく問題もあるけど、この村にはナニカがあるから大丈夫。俺は次の町へ行くんだ」

という具合だ。悲惨なだけの村をスルーして次の場所に楽しみに行くのは心苦しい。社会問題をチラっと垣間見ても次の日はやっぱり旅行を楽しみたいのが人の心情。

2.4 自己批判をしなければやってられない人

こういうタイプの人もたまにいる。常に自分の悪いところ・改善点を考えていて、見つけるやいなや「俺ってダメだ」とうなだれる。海外で目に耳にしたものが日本になければ、「日本はこれを失った」と高らかに宣言してうなだれる。たぶん、自信が無い割にプライドが高いのかもしれない。

2.5 ないものねだり

自分にないものがそこにあれば、それに憧れる。貧しさがなければそれに憧れる。遊び呆けた子ども時代がなければそれに憧れる。そういうことってあるんじゃないか。

逆に「ないものはねだる」けど「想像できないものはねだれない」ということもあるかもしれない。目の前の生活に精一杯で、今そこで働くしか選択肢がない人は、もっともっとお金のある暮らしをリアルには想像できないだろう。

3 整理してみた結果

自然への畏怖を脇におけば、やはりキーワードは経済ではないかと思う。金銭的、物質的に豊かではない人が働き、楽しみ、暮らす人々を見て、日本の豊かさと閉塞感に違和感を感じるのかもしれない。

なんだ、かなり普通のオチに落ち着いてしまった。長文を読んでもらったのに申し訳ない。

ただ、幸福度は周囲の幸福度との比較で決まる。そして人は幸福に慣れてしまう。「日本人が忘れてしまった」などというもったいつけた言い方ではなく、「あぁ、日本も昔は金銭的に貧しい時代があったな」という言い換えをすべきなんじゃないか。

そういう時代は、小さな利益で幸福感があったし、それでも満足もできた。今は足ることを知るのが難しくなってきているかもしれない。旅先で見かける素朴な暮らしをする人も、日本のような環境に囲まれたらどうなるかわからないと思う。

こうした気づきがあるのは結構なことだし、いい大人になったら自分の欲望や幸福感とうまく付き合っていかなきゃいけないと俺は考えている。ただ、「この村の人たちは、病気になったら病院に行くお金がないけど、日本人が忘れたナニカがあるから幸せだ」とか決めてしまうのだけはいただけない。

あと、単に座りがいいフレーズだからというのもずるい。これを落ちに持ってくればなんかまとまっちゃうみたいな安直感がだだ漏れしてきている。もはやジェイPOPの歌詞にすらなりそうなフレーズだもの。

自分も、今回はこのブログを書いたことで、日本人が忘れかけていた何かを胸にはばたくよ。瞳閉じてね。

りょう の紹介

東京都品川区で生まれ育つ。サービス業、ホステスクラブ、海外ボランティア駐在員、レストランバー、コンピュータ会社などを経て独立開業。2011年から休業し、夫婦で1年ちょっとの世界一周へ。現在は帰国してイクメン父上に勤しむ。好きな食べ物はナス。言語や歴史に興味あり。コンプレックスは字が汚いこと。好きな言葉は「とりあえずビール」でポッドキャストでは世界のビールを飲み歩く「Beer the World(ビーアー・ザ・ワールド)」を担当。
カテゴリー: ポーサット, カンボジア タグ: , , , , , , , , パーマリンク

日本人が忘れてしまった何かって何なの? への6件のフィードバック

  1. イルリサット のコメント:

    りょうさん、めぐみさん、初めまして こんにちは
    いつもポッドキャスト、いつも楽しく拝聴させて頂いています。

    「日本人が忘れてしまった”何”か」の答えは1つでないと思いますが、他人との距離感、周囲との関係性が、一因ではないかと思っています。

    経済的に豊かになった日本では、一定の収入があれば、他人と会話せずに買い物をし、欲しい物を得て、生活をする事が出来ます。

    特に都市型の生活(ワンルームマンションなど)は、他人への関心が希薄になり、他人からの干渉を望まないようになっていると思います。隣に誰が住んでいるか知らない事も特別でない。

    他人に対して「こうしたら良いのに・・」や「それはやっちゃダメでしょ・・」と思ったとしても、それを伝える事で、相手から変な人と思われたら困る・・などと考え、「まぁ、いいか」と伝える事を思いとどまる事は、頻繁にあるのではないでしょうか。
    (思いとどまる事を何度も繰り返しているうちに、他人に対する関心が低くなり、周囲との関係性が希薄になっていく)

    一方、”何か”を感じる場所では、他人との距離感が近く、良い意味で(悪い意味でも)他人に関心を持ち、余計な遠慮をせずアドバイスや、助けてくれる人が少なくないように思います。

    旅先で初めて会う現地の方とコミュニケーションを取る事で、他人との繋がりを感じる事が出来ます。(日本で生活している時と異なる環境)

    その関係性(全く知らない人と突然にコミュニケーションをする事)が、今の日本では珍しくなってしまった為に、海外で他人との距離感、周囲との関係性に”何か”大切なモノを思い出すのではないでしょうか。

    過去のバックパッカー経験を経て、感じた事を書き綴ってみました。

    • りょう のコメント:

      イルリサットさん、はじめまして。
      ポッドキャストを聞いていただきありがとうございます。
      そしてこんな駄文エントリにコメントくれるなんて、感極まります。

      これ、そういえば10年以上前の初バックパッカー体験を終えた後に感じたことでした。旅行を終えて日本に帰国したときに、「他人との距離感」が近くなっていていたことに気がつきました。人に普通に話しかけたり、道に迷ってそうな雰囲気が少しでもある外国人を見たら「どうしたの?どこいくの?」と話しかけていました。いろんな国でそうやって助けてもらってましたから。

      でも、日本に住むうちにこの距離感がまた遠くなっていきました。不思議ですね。「忘れた」のか「元に戻ったのか」・・・

      ・外国一般にある「ナニカ」
      →効率性一辺倒ではない生活
      →他人とも気楽におしゃべりをする人との繋がり

      書き出しているこの時点では頭の中をよぎってはいたんですが。

      大型の量販店、ネット通販、コンビニなどがない/少ない国では、個人商店が基本でものを買うときにも人との接触は避けられません。「避けられない」というか、それが普通ですよね。一つの町にしばらく滞在して、そういう「いきつけ」のお店ができて世間話するのも楽しいものです。バスに乗れば初めて会った人同士がきさくにおしゃべりしています。社交性が重視される社会でもこういうことはよく起きてると思いますが、単に他人に興味がある人が多い社会でもよく見る光景ですよね。

      そのくせ、日本の都会は通勤ラッシュみたいに「物理的な距離」が異常に近いという不思議。地方都市はむしろ車社会で物理的な距離さえ遠いですね。

      この返信、考えながら何度も書き直しています。仮説を作ってみました。

      経済成長やテクノロジーは距離を広げるためのツールであって動機にはなり得ない。距離を広げたがる動機は何かを考えたら、やっぱりイルリサットさんが書いた「(過)干渉」だと思います。たしかにこの「(過)干渉」は嫌です。干渉の背景には、ジャパン的な同調圧力があると仮定してみました。

      相手に意見を言われたくない。相手のエリアに踏み込んで意見するのが恐い。大勢がしていないことをするのが恐い。同調圧力の結界が張られていると、「同じでなくては」という観念が襲ってきます。でもこれが、他人と自分の意見が違ってもそれでいい、自分と違う意見を言われ同意できなくてもそれでいい、同じなくても別にいい。そう思えたら、もうちょっと気軽に相手に近づけるし、相手が近づいてくるのも恐くないんじゃないかと思います。

      同調圧力についてはもっともっと忘れて欲しいと思いますが、同調圧力を忘れて個々の違いを認められたら、結果として人との距離が縮まるんでしょうか?こういう形で距離が縮まれば、もっと人とのコミュニケーションが気楽で楽しくなるように思うんです。

      この同調圧力、昔より今のが強いという話を聞きますが、イメージでは昔のが強かったんじゃないかとも思います。忘れたのか、変わったのか・・・

      うーん。なんだか一貫したスジに欠ける内容ですが、送信ボタンを押してしまいましょう。

  2. さち のコメント:

    お久しぶりです。さち@宮崎です。初コメントです。
    ちょこちょこブログ読ませてもらってます。りょうさんもめぐみさんも文章が上手で、楽しく読んでます☆

    イルリサットさんのコメントを読んで、思い出したことがあります。
    カンボジアで日本語を学んだ学生が来日。その彼女が、「日本に来て驚いたこと」を話してくれました。それは、高いビルでも、きれいな洋服でも、便利な地下鉄でもありませんでした。
    彼女は、「先生、どうして日本人はバスで隣に座った人と話をしないのですか?」と
    私に聞いてきました。
    なるほど、確かに、カンボジアでは(私が他の国の経験がないので、ひとまずカンボジアで)、バスでも何でも「その場に居合わせた人」とふつうにおしゃべりしてますよね。そんな彼女が日本のバスに乗ったら、すごく違和感というか驚くだろうな~と思いました。

    りょうさん、めぐみさん
    体に気をつけて、善き旅を!!!

    • りょう のコメント:

      さちさん、お久しぶり。初コメントありがとう。

      カンボジアに限らず、経済的な豊かさに関わらず、その場に居合わせた人と会話をする国は多いと思うよ。

      こういうの、日本にはあんまりないよね。シチュエーションによるけど声をかけたら変な人に思われちゃうかも・・・。人が多すぎるからなのかな?俺はやっぱり、気軽に話ができる雰囲気のが好きだね。

      ま、日本国内でも、地域差があるかもしれないけど。

  3. fumifumi のコメント:

    久しぶり。宮古島の図書館で除籍図書みてたら「あんたには
    これがいいんじゃない」ってscreenって雑誌渡された。(初対面の)おじさん!アジアだね!って内心思った。一応持って帰ったよ~
    ケメラさんはNGOにいたひとだね
    大人の女性ってかんじにびっくり
    夏休みになりました。カンボジアいきたいな~
    しかし現実には石垣にいくかも

    今、瀬戸物店にいるけど、金魚すくうために
    てんぷら網買いにきてるおばあちゃんとか
    いるよ
    結局茶漉しでいいやって帰っていった
    ここは宮古島共和国にしたいっていうひともいるし
    おきなわともなんか違うのかも
    アジアなかんじです

    いまからモーニングコーヒーです
    めぐちゃんおいしいコーヒーはのめてますか?
    良さんも山とかでっかい公園とか!アクティブだね!
    では・・・・

  4. めぐみ のコメント:

    fumifumiちゃん
    ひさしぶりだね!
    screenって映画情報雑誌?わたしも好きでよく買ってたよ。
    そうそう、ケムラはNGOで一緒だったケムラだよ。
    久しぶりに会ったけど、そんなのは全然感じないくらい色々話したよ〜。
    6月から1か月半の予定だったカンボジア旅行も早2か月。
    もう1か月はカンボジアにいる予定だから、こっちにこれそうだったら合流しようね!
    そうそう、わたしたちは今モンドルキリです。
    ここは山で少数民族が住んでいる所だよ。
    山のせいか、天候は変わりやすいし涼しい(寒いくらい)し、
    今までとは違うカンボジアの風景が広がっています。
    モンドルキリはコーヒーの特産でもあるというので、早速飲んでみたけど、
    ナッツのような香ばしくて甘い香りがします。
    りょうくんは明日、トレッキングに行くみたい。あたしは無理かな、体力的に。
    ではまた

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